「みんなのうた〜もうひとつの第九〜」のプログラムノート

 来年の長野五輪の開会式のメインセレモニーとして「第九」の演奏が予定されているのをご存知だろうか。しかも声楽のソリストは世界中に散らばり、新開発の衛星回線同期技術によって演奏に参加するという。ところでベネディクト・アンダーソンは著書「想像の共同体 〜ナショナリズムの 起源と流行〜」のなかで声の同時性をナショナリズムの物理的顕現の例として挙げている。
 街角の掲示板に注目して頂きたい。数カ月前から「第九市民演奏会参加者募集」などのチラシが見受けられたであろう。今では間近に迫った演奏会の告知に変わっているであろうか。テレビでは行政による都市再開発と結びついた第九演奏会や、「一万人第九演奏会」なるものの話題が報じられる。当のベートーヴェンは、作曲から150年以上経った後の極東の島国で、年末に繰り広げられるこの騒ぎをどう思うだろうか。
 今日ここで行われる「第九演奏会」は「第九」の音楽性よりもその社会性に焦点をあわせたものである。年末に行われる第九演奏会は他のクラシック音楽会に比べ異なった意味あいを持つ。共同体に属する個人として、文化を享受しそれに参加すること。第九演奏会は「市民文化」の確認の儀式なのだ。「市民」という移入概念を西洋音楽という文化装置で確認する。「市民」というこの幾分政治的な概念はそれが故に容易に行政に結びつくことが出来る。いやむしろ「第九」の意味あいはそもそも政治的であり、ナショナリズムを高揚する(たとえそれがソフトな外見であっても)場であるオリンピックが第九で幕開けるのは故なきことではない。
 ところで「第九」の社会性に注目することはその音楽性を逆照射することにもなる。なぜ「第九」でなければならないのか。マーラーやモーツァルトではこのような社会機能を果たすことは出来ない。それは単にベートーヴェンを至高の作曲家に祭り上げるいわゆる「ベートーヴェン神話」や第九にまつわるさまざまな伝説のせいではない(「ベートーヴェン神話」など今ではほとんど冗談でしかないだろう)。原因はその音楽そのものに帰することが出来る。終楽章に向けて高揚するホモフォニーの連鎖。単純極まりない合唱パートのメロディー。そのものずばりナショナリズム賛美の歌詞。
 様式という面では、ベートーヴェンの後期作品群の中で「第九」は例外的な作品といえよう。ポリフォニーとホモフォニーの拮抗によってつむぎだされる晦渋極まりない後期弦楽四重奏曲群の響きと、「第九」の単純明快な音楽の違いはあまりに大きい。かってアドルノが見いだした主観と客観の亀裂と終局をここに求めることは出来ない。しかし「第九」は堅固な形式に世俗性が介入することによって奇妙な歪みを生み出している。抽象的な交響曲形式の中に突如出現する合唱パート自体その歪みの最たるものだし、終楽章の二重フーガ、トルコ軍楽の引用や、川島素晴の指摘する第2楽章のニ短調内のヘ音オクターブ動機などなど。
 きょう演奏される「第九」はその社会機能や知られざる音楽性を顕在化させる装置である。(1997年12月)

コメント:公立美術館の年末コンサートの企画をした時のもの。入場無料で地元の人が一杯くるような公演にこんな解説を書いたもので、よわーくクレームもついた。ネタ的には市民社会=和声音楽論。まあいいでしょ。


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