声の唯物論

 近代における歴史的視線は声を常に、<声>の方へと、イデオロギーの方へと呼び寄せる。声は物質としての声であることを奪われ、一個の根源からの<声>へと還元される。思えば近代における音楽とはその<声>の第一の担い手ではなかったか。その物性を常に晒さずを得ず、芸術であることと物であることの分裂を常に意識せざるを得ない絵画のようなジャンルと異なり、音楽はその抽象性の故に、その経験を神秘的で個的な体験へと転化する。いわば無媒介な根源の到来の場という役目を託されてきたのではないか。例えばロマン派の詩人達にとって、芸術による統合化の最高形態としての詩が音楽と同義であったように。

 ところで、<声>としての音楽とは、まさに政治という領域を巡るイデオロギーであることに注目しなければならない。J.-J.ルソーが「言語起源論」の中で<声>について語ったとき、それは政治という言説を形成するものに他ならなかった。<声>の、そして音楽の体験はそれが個的なものであるにも関わらず、根源への参入の場でもあるが故に、共感の構造の内に共同体を形成させる。<国民>の概念に根拠づけられる所の近代国家は、<声>の共有化の内に、換言すれば音楽の権能の内に誕生する。芸術の非政治主義が政治主義そのものに転化する近代の逆説をここに見ることができよう。

 現代の音楽の地平で、あえて唯物論的闘争を行うとするならば、そこで発せられる声は、<声>であるわけにはいかない。声は根源であれ、何であれの指示物たることをやめ、声自体としてあらねばならない。

 しかしここで、全ての声は既に発せられてしまったのだという事実につきあたる必要がある。それは新たな声の発見の禁止であるとも換言できよう。新たな声はそこに「新しさ」という属性が付与されているが故に声を放逐してしまう。つまり新しい声の探求とは、声を「新しさ」という象徴性のもとに再び観念化し、むしろ<声>の統括能力を補正する機能を担うものであるといえよう。純粋で無垢な声のいう言説こそ、まさにイデオロギーそのものなのだ。

 <声>のエコノミーに真に抵抗しうるのは、少なくとも生産のレベルにおいては形式化という作業である。即物性の強調は、その外見に反して極めて観念論的な所作であるといわざるを得ない。声が物質であり、物質でなかったことなど、かつて一度もなかったのは自明であるが、しかし物質でしかなかったことも一度もなく、おそらく今後もそうであろうという事実を忘れるわけにはいかない。物質性の強調は素材に主体を介入させつつも、その身振りを隠蔽するという作用において反動的である。
 形式化とは、素材に対する主体の働きかけであるが、決して素材を観念の指示物たらしめることではない。この点において、それは素材を用いて何らかの言明を提示するコンセプチュアリズムや例示主義とは決定的に異なっている。また形式化は素材の操作ではあっても、形式が表象に対して超越的であり、一般性なり普遍性なりを持つということではない。形式はそれ自体では単に恣意的な論理であり、その意味で、あらゆる領域に対し自律的な、徹底的な閉ざされを持つ。しかしその閉ざされの否定性の内においてのみ、客体は主体の軛を逃れ、声は自らを開示する。その開かれた声は政治主義とも非政治主義とも隔絶した地点で「政治」と対峙しうるであろう。(1994年7月)

・以上の文は私にとってのモダニズム宣言というべき性格を持っていたが、現在では私はモダニストの立場をとっていない。従って「形式化」が現状に有効であるとも考えていない。しかしながら上記の文での批判は今なおほとんどの局面で有効であると考えている。ポスト・モダニズムの悪循環からの転回のありかたとしては結局のところ素材主義に大勢は向かっているのではなかろうか。だがそれは、政治的反動、あまりにも具体的な反動とパラレルである。
 ちなみに最初の2つパラグラフは私の卒業論文の極端な要約である。用語法から想像できるように、それはJ.デリダの "De La Grammatologie" に拠った音楽批判論である。(1999年10月)


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