アーティスト・イニシアティヴ・リンクス 2001 パドゥルズ 〜芸術と社会の新たな関係の構築へ

●アーティスト・イニシアティヴ
 近年ヨーロッパを中心に「アーティスト・イニシアティヴ」という活動が注目を集めている。美術家が作品を制作するだけでなく、アート・スペースを自ら運営し、発表する。制作のみならず、発表するまでを芸術行為と捉え、責任を取っていこうとする。そのスペースではもちろん他のさまざまな芸術家も発表することになるだろうし、地域の人々とどのような関係を持つかも問題になってくる。社会的な関わりにおいて、作品が誰と、いかに関わっていくかは大きな課題になるだろう。このような形態が発達した理由には、インスタレーションやサウンド・アート、パフォーマンスなどの概念の発達にしたがって美術館や商業画廊という枠組みにおさまらない作品が増えてきたことがあげられる。そのためこれらアーティスト・イニシアティヴの組織で発表される作品は先鋭的でコンセプチュアル、または他ジャンルとのコラボレーションなどの傾向が多く、例えば美術マーケットと結びつきの深い表現主義的なものはほとんどみられない。
 世界各国のアーティスト・イニシアティヴの組織が参加する国際的な交流活動としてパドゥルズは1999年から始まった。アーティストの交換展を活動の中心に据えて、年々ネットワークを拡げ今年のパドゥルズ2001には日本、ドイツ、ベルギー、オランダ、ポーランドの5カ国、16組織、22名のアーティストが参加する。パドゥルズ2001 を機会に初来日する2人のアーティストに焦点をあてて紹介したい。

●ポスト・パフォーマンス絵画 - クリストフ・バンガート
 ドイツのドルトムントから来日するクリストフ・バンガートは「ループ」を主題としたアクリル絵画に取り組んでいる。矩形のカンヴァスを直角に折れ曲がる線が分割し、形成された空間は「ループ」によって閉ざされる。一見したところミニマルな印象だが、次第に快楽的で時に感情的といってよい表情に気付く。それはおそらく、層をなす、くすんだ色彩のせいで、その折り重なりは身体の所作と時間の存在を強く感じさせる。カラー・フィールド・ペインティングやミニマリズムを想起させながら、それらが無視した時間の要素をとりいれているのは彼が同時にパフォーマンス・アーティストであることと無縁ではないだろう。しかも筆触とは異なる方法で身体性をあらわすやり方は極めてユニークだ。ロシア・フォルマリズムからミニマル・アートを経由するモダニズムの王道ともいえる方法論を採用しながら、そこからあふれ出る不可避の身体性を直視した彼の作品は形式/形態を巡る思考の新たな局面を開くポスト・パフォーマンス絵画といえるのではなかろうか。アトリエを訪ねた際、彼はBasicによる自作プログラムでループ・ポイントをのんびり24時間計算し続ける旧式のアタリ・コンピュータと共に、「ループ」以前の作品も見せてくれた。彩色した板に数個の穴を穿ち、水に漬けて膨張させる。穴の周囲は盛り上がるので、その盛り上がった部分を削り落とす。そうやって彩色された部分と板の地肌の露出した部分で形態を作り出す。大工見習いだったという彼の前歴をもうかがわせる作品だが、ここでの偶然の作用が「ループ」絵画でのシステマティックな方法に置き換わっていることが何より興味深い。偶然もシステムも形態発生というパフォーマンスの方法論なのだ。
 彼のアトリエは今回の参加組織のひとつであるキュンストラーハウスの中にある。この組織は古い校舎を利用し、市の助成のもとでアーティスト達が共同で組織、運営している。アトリエを持つ十数人のアーティストはみずからの制作、発表だけではなく、展覧会、パフォーマンスの企画も行っている。昨年、筆者もダンサーの山田うんと共に、恐ろしく汚い、しかし素敵な地下室でパフォーマンスをおこなった。

●神経組織としてのギター - エアハート・ヒルト
 同じくドイツのミュンスターからやってくるエアハート・ヒルトはギタリスト。ヴォイスのフィル・ミントン、サックスのジョン・ブッチャーとのトリオでの活動など即興演奏家として名高いが、同時にアーティスト・イニシアティヴのスペース、クーバ・クルトゥアの代表でもある。クーバ・クルトゥアは実験音楽、即興音楽はもちろん、パフォーマンス・アート、インスタレーションを扱う。私が訪れたときはスペースの入口脇に外の通行人が覗けるように設置されたインスタレーション作品が印象的だった。考えてみればアーティスト・イニシアティヴの発想に近いものは、60年代アメリカのフリージャズ系の音楽家たちの組織や、その後に続く先鋭的な音楽家によるインディペンデント・レーベルの活動など、発表の場の確保、配給の組織化、音楽家の自立などを図った一連の運動を先駆的なものとして見出されることを考えれば、ヒルトのような存在は不思議ではない。事実、クーバ・クルトゥアは80年代初めにヒルトが始めた即興演奏の組織から発展したものだという。
 ヒルトはギターを音響発生機械として捉えているようだ。といっても、それは例えばフレッド・フリスのようにギターを手練手管で異化するやり方とは異なっている。概して短いソロ演奏では、「ドローン」であるとか「パーカッション」などの明快なタイトルのもと、タイトルそのままの演奏を繰り広げる。正統的ともいえるテクニックをベースに、エレクトリック・ギターを数多くのエフェクターに通し、ギターアンプを介さず、直接PAシステムに繋いで発せられる音は、響きの空間性を感じさせることなく、直接、脳の神経組織に触れるような感触を持っている。いいかえるなら手は脳の延長であり、ギターは手の延長であり、PAはギターの延長であるという思考。ある意味「音楽離れ」しているともいえる彼の音楽が NURNICHTNUR のようなサウンド・アート寄りのレーベルからリリースされているのもうなずける。

●日本のアーティスト・イニシアティヴ - 芸術の自律の再編に向けて
 ヒルトは今回、同じくパドゥルズで来日する、ヴィデオ・アーティストのハーラルト・ブッシュとのコラボレーションの他、何カ所かで公演が予定されている。その初日、筆者とヒルトのデュオ演奏も予定されている東京ドイツ文化センターの公演では、併せてドイツと日本のアーティスト・イニシアティヴを巡るシンポジウムも開かれる。ヨーロッパのアーティスト・イニシアティヴの組織は市の助成で運営されているものがほとんどで、その辺り、日本との格差を感じずにはいられない。その背景にはパブリックなものと芸術の関係性の意識の違いや、端的に不動産の価値の問題 -つまり日本には何も使われていない建物が少ない- が横たわっている。ヨーロッパをモデルにして、その落差を埋める方向に進むのか、あるいは日本独自の方向に運営形態を模索するのか、その場合大かれ少なかれ作品の理念というものも影響をこうむるに違いない。美術館が美術の価値決定機関としての役割を決定的に終焉させたいま、芸術の自律と芸術家の自立という、クールベ以来の問題が再び問い直されている。この自律と自立への問いかけこそが、最もアクチュアルな芸術の問題ではなかろうか?


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