音楽工作所 その5(特別編)Fluxconcert

日時:2000年3月4日(土)2時30分〜5時(開場2時)
会場:三鷹市芸術文化センター第一音楽練習室(三鷹駅徒歩12分)
入場料金:1000円
入場者数:30人

<告知文>
Fluxconcert
演奏:足立智美
演奏曲目
George Brecht / INCIDENTAL MUSIC
La Monte Young / 566 FOR HENRY FLYNT
Dick Higgins / DANGER MUSIC NUMBER SEVENTEEN
その他
赤瀬川原平
Robert Bozzi
George Brecht
Milan Knizak
Tomas Schmit
Ben Vautier
などの作品を演奏する予定です

。 60年代前半のニュー・ヨークを中心に数多くの「イヴェント」を繰り広げその後のコンセプチュアル・アートや現在のパフォーマンスに多大な影響を与えたとされる「フルクサス」ですが、その「イヴェント」の様子は、数少ない写真、フィルムで窺い知ることができるだけです。しかしこれらの「イヴェント」の多くはスコアとして記譜され今に残っています。ならばこのスコアをもとに再演できるはず。これはフルクサスの再現でも新たな解釈でもなく、演奏です。70年代に生まれ、60年代の空気すら吸ったことのない私ですがフルクサスを時代の産物として忘れ去るのではなく、もう一度観客の前で「出来事」として具体的に現前させること。それもあながち意味のないこととは思えないのです。

<当日のプログラム>
ベン・ヴォーティエ/見よ (1964年)
ディック・ヒギンズ/危険な音楽第17番 (1962年5月)
ロバート・ボッジ/ジョージ・マチューナスの追憶に第1番(1966年)
ロバート・ボッジ/選択第18番 (1966年)
ミラン・ニザック/ファッション (1965年)
ジョージ・ブレクト/3つのランプ・イヴェント (1961年)
ジョージ・ブレクト/付随音楽 (1961年) - 全5曲 -
ラ・モンテ・ヤング/デイヴィッド・テュードアのためのピアノ小品
ジョージ・ブレクト/ピアノ小品 (1962年)

- 休憩 -

ラ・モンテ・ヤング/ヘンリー・フリントのための566
トーマス・シュミット/ピアノ小品第1番 (1962)
赤瀬川原平/梱包
ジョージ・ブレクト/言葉のイヴェント (1961年)

演奏では曲の区切りが明確でない場合がありますが、楽譜をめくったところで曲が変わるとお考え下さい。
作曲年の記載のない作品も60年代前〜中期の作品です。

●フルクサスについて

フルクサスの定義は難しい。60年代の初頭からニュー・ヨークを中心に展開された一連のイヴェントを行った芸術グループという言い方もできるが、このような説明では中心人物といえるジョージ・マチューナスの滅茶苦茶ともいえる企画力や、アメリカのみならず日本、西欧、東欧に拡がりを見せた活動が視野に入ってこない。60年代の初めにヨーロッパを巡回した「フルクサス・フェスティヴァル」では、いわゆるフルクサスの作家のイヴェントだけではなく、例えばリゲティ、ペンデレツキ、武満徹などの現代音楽や、大島渚、羽仁進の映画の上演まで含まれている。この同時代的な拡がりはもっと強調されても良いだろう。ただし今日、取り上げるのはフルクサスの中心的といえる作家による、イヴェント作品である。

●今日の演奏について

フルクサスの作家はそのイヴェント作品をほとんど全てスコア=指示書という形で残している。おそらく実際に上演された作品の数倍、数十倍の数があるのではないだろうか。今日はそのスコアに基づいてのイヴェント上演を行う。
ほとんどのスコアは具体的だが細部に関する指示は持たない。リアライゼーションにあたっては、指示のないディテールは敢えて無頓着に処理し、単純明快な結果を生むように心がけた。つまり単純な指示書から複雑で大がかりなパフォーマンスを行うことも可能だが、今回はそれを避けている。小道具類もなるべく簡単なものにとどめた。また幾つかの作品に関しては作者による意図、あるいは心理的背景の解説を容易に得ることができるが、それらスコア以外の情報も積極的に無視している。作者自身の演奏がフィルム、写真で残っている場合も参考にとどめた。私のここでの関心はフルクサスの再現でもないし、作者の意図の表現でもない。勿論、個人的な解釈でもない。それは時間軸、空間軸上の操作の記述=スコアの「演奏」である。いつどこでも起こりうるが、ディテールはいまここにしかない。そしてそれが私がフルクサスの上演における今日的可能性と考えているものである。

●演奏作品の選定について

今日演奏される作品は全て"The Fluxus Performance Workbook" (El Djarida 1990, Ken Friedman編)掲載のスコアに拠っている。この本に拠ったのは、1)上演に関する著作権が明確に規定されている。2)第3者が上演することを目的に編集されている。という2つの理由による。他の有名な作品集、例えばラ・モンテ・ヤングの編集による"Anthology"などに採録のスコアは敢えて用いず、複数のヴァージョンが存在する場合も"Workbook" のヴァージョンを採用した、"Workbook"には200〜300の作品が収録されているが比較的よく知られた作品の欠落も多く、それら多数の「代表作」は今回の上演の対象からは外されている。
上演作品の選定にあたっては、物理的にこの会場で2時間という枠の中で上演可能であること(実はこの段階でかなり作品は絞り込まれた)が第一の与件であるが、当然、私自身の作品に対する関心が大きな位置を占める。
フルクサスのスコアを眺めると幾つかの傾向を見つけることができる。1)ナンセンスな演劇/音楽=劇場(ただのギャグも含む)。2)拡張された音楽。3)ブルジョワ文化の破壊、嘲笑。4)直感的な(?)想像力。5)コンサートの異化(芸術の日常化)。6)日常生活の異化(日常の芸術化)。7)反復/退屈。勿論ほとんどの作品には複数の傾向が含まれているし、もっと他の傾向を挙げることもできるだろう。3)と5)の区別は難しいし、6)と7)は意図と現象のような関係にある。またマチューナスが「ネオ・俳句・シアター」と呼んだところの1)は他のほとんどの項目を包含しうる。今回は、現代の日本でやることの意味を見いだし難い3)、私が個人的にその能力に欠けていると思う4)、私の普段の活動とのバランスから2)、の傾向を持つ作品を除いた。また6)の傾向の強い作品も今日のようなコンサート形式で演奏することが困難なものが多いため除かざるを得なかった。しかし今日の演奏から除いた筈の傾向を見いだすこともそれほど難しくはないだろう。

<当日の様子> 写真:福永綾子

    
    ベン・ヴォーティエ/見よ        ミラン・ニザック/ファッション ラ・モンテ・ヤング/ヘンリー・フリントのための566

  
 トーマス・シュミット/ピアノ小品第1番         赤瀬川原平/梱包



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